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鎌倉時代を考えようLINK集

夜空

12世紀末に、「鎌倉殿」源頼朝が武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。 幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、当時の制度上では公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、全国の武士を支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。しかし、元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にし、事実上全国を支配することとなる。

文明

鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。 源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。

文化遺産

源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、たとえ頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。 後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得、東国に偏重していた幕府の支配が西国にも及ぶようになる。 経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有制度が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた 。(wikipedia参照)